ブーメラン5-d

第五章 d

母親とは異なった別の人

「まあ!別の人ですって!
何とまあびっくり。
デブの女どもの仲間に、
私が入りたがってるですって!。 
『確かに』母親とは別の人だけど、
でもやっぱり・・・
母と別の人に、なりたくないわ!」

それでも彼女は・・・。
自分の過去と勇ましく戦ってきた。
最初の夫のとき、
一見自己破壊みたいに、
あえて自分の欠点を探したりして、
全力で暮らした。
彼女が、女性すべてを、
軽蔑しているようだったと、夫は言う。

それでも、彼女は、子どものために、
ベストを尽したし、
書くことや絵を描いたり、
すべてに創造的になろうと努力したし、
ときにはそれを楽しめだ。

「私、ジョン(今の夫)に、
愛情がこみ上げてくるの、
私は、一人の独立した人間で、
母親とも他の人とも、別のものなのね、
だから、彼を愛せるんだわ!・・・

でも・・・自分が一人の、
別のものだと感じると、不安で、怖いの。」

「そういう不安を受け入れて、
それと共に、生きていくのがいい。
お母さんが強い人だと、考えていたんだね、
お母さんが、見かけは、
一度も不安そうに見えなかった。
ひたすら、自分の不安を否定し、
それを弱さのしるしと、無視してきた。
強がりを言ってね。
不安という、人間性の大事な要素を、
嫌がって拒絶してきたんだね。
私には、弱いところなんて、
一つもないってね」

「母を、鉄人のように強い人だと、
思ってきたわ。」
本来の自分でいることへの、恐怖は、
メアリーに、引き継がれた。

ある日彼女は、自分の成功話を、
誇らしげに話していた。
雑誌にのったこともある。
しかし、彼女の、
自信満々の自慢話を、いくら聞いても、
本当の、彼女自身の手ごたえは、
微塵も、感じられなかった。

「昨日ジョンに、何度もキスしたわ。
私が一個の、別の人間だと聞いたことに、
無関係ではないと思うわ。
この意味は分かるようで・・・
まだよく分かってないのかも」

「もしあなたが誰かを捨てたら、
その人は死んじゃうかな?」
私は、彼女の母親のつもりだったが
「死ぬのは、きっと私ね。
母はいつも針金みたいに、
私に絡み付いていたわ。本当に元気よねえ」

「何かあなたは、恐れているようだね。」
「ジョンが、もしいなくなったら、
どうしよう。恐いわ。一人ぼっち 
一人になったとき、
本当の自分への恐れが、出てくるわけね。
わかったわ、昔の母親との関係ね。・・・
アー、何かが壊(こわ)れるわ。
泥によごれた何かが壊れるわ!」

「もし私が、
母親そっくりでなくなったら、
彼女とは違う別の人になることの、
責任を、取らなければならないわね。・・・
なぜって、そのとき私は、
本当の自分の感覚に、
波長を合わせているでしょうからね。・・・
ああ、やったわ!
それを知らなかったのね!
このことなのね、これが最後ね。
それでいま私は何をしたらいいの?
オー、古い銀色の紐、臍帯!」

自分が、母親の「所有物」でも、
あるかのように、
本当の自分を、見捨てたままでいる限り、
自分の感覚で、
自由に行動していかないかぎり、
疑問は、空回りするだけだ。

「あー、自分がいつも正しいと
思ってたのね。
母と、まるで同じね。
母の汚さが、私のすべてを、
正しいと、言い訳してくれるから
母にぴったり、くっついていたのね。
私はいつも正しいってね。

私は、私自身の感覚で、
生きていかなくっちゃあね。
本当の人生が、開けてきそうだわ。
何て馬鹿なこと、してきたんでしょう」 

私たちは、どうしてこんなに、
怒りやすいのだろうか。
大切なことは、まず恐怖を経験すること、
そして不安も十分感じること。


愛の名を借りた偽善

統合失調者は、社会に順応した人々と、
正反対の状況にある。
彼らは、社会から、
完全に身を引こうとする。
社会から「分離」している。

社会と同調しない
社会が押し付ける、社会的に、
認められた観念から、遊離する。

自分の優越感を、示したり、
みせかけの「同情」を使う人々に、
「思いやりの心などない」と、
鋭く見抜く。
役者もどきの、親切とか悲嘆などの
「同情的な」反応に、
彼らは笑ってしまう。

彼らは、社会と同調しない、
社会で認められた行動に、参加しない。
現実社会に、生きてはいない。
彼らも、そのことはよく知っている。
彼らは、より真実に近づくが、
同時に、現実からは遠ざかる。

統合失調者の分裂した状況と、
うその愛が引き起こす、
社会に合わせていくときの、
意識の分裂とは、全く別物である。

統合失調症の分裂は、
物事を、真実の姿で、とらえるときに、
それをどう理解して、どう表現するのか。
言葉を身に付けるより前、
言葉の存在を、まだ知らない時に。
イメージは頭にあっても、
言葉として表現できない。
まさにその段階で・・・
信用できない、
「まやかしの愛」の洗礼に会った。
あたかもそう見える、決して愛ではない、
愛の「まやかし」を見抜く。

自分の感じ取る真実を、
現実に生きる力に、つなげない。
真実について、まだ言葉さえ知らない、
あまりに幼いときに、信頼性を損なった。

服従・従順を押しつける、
愛の偽善を、鋭く見抜く。
こんなひどい世界では、
愛は成り立たないと、証明し続ける。
結局は、自分が人に好かれないように、
してしまう。
生きながらの死とは、この徹底的、
かつ自主的な真実性そのものと言える。
徹底的な「真実性」が、あるのだから、
今度は、直接的でまじめなやり方で
彼らを、扱っていけないものだろうか。

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