ブーメラン3-6

第三章(その6)

いまにも見捨てられそうな感覚

所有は「力」か「愛」か

男の優越性という神話は、 
「にせものの愛」を求めて三千里、
結局、憎しみの蜘蛛の巣につかまる。
性神話は、
「褒められたい」「賞賛」という
「にせものの愛」を欲しがる男性を、
偉大な業績に、かりたてるが、
むなしい努力の末の心臓発作やうつ病
または自殺にさえもかりたてる。

子どもに「依存」する関係。
子どもを「所有」して、
「物」のように利用すると、
自分に力があるような、気になる。
「あなたは、私の物よ。
いいね、私の言うとおり、するのよ」
母親には、それが「愛」にみえる。
「依存」が「愛」に見える。

パートナーや子どもを、
奪われそうになったとき。
妻が他の男と、話に熱中したり、
我が子が、他の子の父親を褒めたり
心の奥で、いったいだれが、
危険を感じないで、いられるだろうか。

男性は、
捨てられた、感情を害した、
攻撃を受けたと、
被害妄想のように、感じやすい。
非常に幼少から起こる。

いまにも見捨てられそうな感覚、
裏切られそうな感覚。
男性の優越性と支配が、
回りまわって飛んできた、

である。

「力」の観念に依存した父親による、
母親への支配が、
母子に、大きな影響を及ぼす。
  
子どもが、母親から離れられない。
子どもの、依存や癒着は、
愛情十分な母親では、起こらない。
夫に支配された母親には、
「愛」が見えない。
母親が子どもを、
自分に「依存」するように仕組んだ。
彼女には、「勝ち負け」と、
「依存」の世界しか分からない。

見かけだけ真似をした、
「まがいものの愛」だから、
どうしても、「愛」が見えないから、
それが心配で、離れられない。
子どもに、「愛」を提供できない母親の
永遠の困惑。

母親に、べったりの子供の陰に、
愛情たっぷりに、見せかけても、
実際は、冷たく引き離して
どうしても、子どもを遠ざけてしまう
母親がいる。
我が子が、支配できる「持ち物」に見える。
 

ファンタジーに逃げ出す

ユージン・オニール
戯曲More Stately Mansions

母親が、ファンタジーに逃げ出せば、
子どもには、相手してくれる母親がいない、
つまりは「見捨てられた」。
子どもに、愛は届かない。

「力」の世界で、
本来の自分を、生きられない母親が、
状況に耐えられず、
ファンタジーに逃避する。

母親が、子どもから離れて、
ファンタジーに、逃げ込む。
母親は、子どもを
「所有」する興味すら失った。
子どもは人生のすべてを、命がけで
母親の「夢の家」への道を
手に入れようともがく。
せめてこの家へ、入れたらいいなと、
子どもは、ひたすら願う。
結局は子どもは、
母親の「夢の家」から、「見捨てられた。」
お返しに、
彼女に「所有」され「依存」させられる。

成人して、彼は分かった。
母親は、私を「所有」して
愛に見せかけて「依存」させた。
後に、空虚と、子どもの被害が残った。
「私の中にも、母親と同じ狂気がある!」

 「愛」ではなくて、「所有」である。
「所有」や「依存」が、
「愛」としか思えない時、
「依存」を「愛」と取り違えるとき
所有する愛のために、
子どもを台無しにする。

父親が、妻を所有し、
子どもは、母親を所有する?
息子は父親に対抗した立場に置かれ、
二者はライバルという、誤りを犯す。
人は、「所有」できる「物」では、ない。

母親は、夫に支配されて、
自分らしく生きられない。
人を、「所有する」「所有しない」なら、
ご婦人は、所有されたまま、
これを、武器にする以外に手がない。
子どもの不満を、彼女は利用する。

子どもの不満は、
「お母さんは、私が、必要としている愛を、
与えてくれなかった。」
母親は、
今にも愛を与えそうな
「見せかけ」だけは、できたが
本当の愛は届けられなかった。
「見捨てられた」のと同じである。
残念ながら、
思わせぶりな母親の戦略に似ている。
 
人を支配し、所有することは、
めぐりめぐって、
破壊的なゲームの戦略となる。
それは愛の表現ではなくて、
嘘の愛の表現である。