ブーメラン3-2

第三章(その2)

正面から対峙

母親の逆襲

私たちは、本来どのような人間で、あり得たのか? 
遠い日に
本来の自分を、見捨てた
これが、破壊性の原点である。

原因は、母親との関係にある。
しかし母親を責めても、意味がない。
彼女は、父親と子どもの、橋渡し役をしている。
力の観念に、基礎をおく社会との、
橋渡し役をしている。

女性が、
ひどく虐げられ、抑えつけられて、
茫然自失の、落胆や危険に遭うと、
まるでリレーのように、時空を越えて、
子どもにバトンタッチする。

特に力の神話に、従う母親に、その傾向が強い。 
苦難のお返しに、子どもを、利用し
支配力を求めて反逆する。
表からは分からない。

子どもは、無力感で失望して、
困惑したまま、立ちつくしている。
母親は、「ほめそやし」て、困惑に対処する。
「ほめそやす」とは、
愛の表現を装って、逆方向にほめそやして、
子どもを、「力」の思想に誘導する。
「褒めそやす」ことで、母親は、本音を隠す。
愛を装って、「力」の支配を隠す。


所有と依存

「わたし、お母さんを独占したい」
「お母さんは、俺のものだ」
子どもが母親を「所有」したいのは、
愛情でも性欲でもない。
母親は、本当の私を、受け入れないで、拒絶した。
母親は、子どもを、力で支配することしか、
愛を知らない。
子どもは、あわてて母親にしがみつき、
母親に依存して、服従させられた。
「愛」と「依存」を、母子ともに混同する。

時に、母親を支配させるかのように、
子どもをそそのかす事がある。同じ意味。
 
母親が受ける、耐え難い外傷は、
女性として軽蔑され、抑えつけられる。
女性蔑視の、力の神話に、服従する。
自分は価値がないと思わされるほど、
虐げられる状況が、現実に存在する。

婦人運動が、平等と言うが、
「力の観念に染まっている男と、平等になる権利」
ならば、それは単に力のシステムの、繰り返し。
これでは、次の世代も、愛の創造的な力を拒絶し、
力のみを追い求める人が、誕生するだろう。

自分の愛が持っている、創造的な価値を、
かえりみなければ、男女平等は、意味がない。

罪悪感、大望や野心、競争心、貪欲
すべて、無力感の裏返し
―――これらからの、解放こそ、望まれる。
神経症」は、単に力への「飢餓」が、
比較的少ない人たちである。

受け入れがたい、無力感と不安の、深い傷、
失われて、恐れてさえいる
本来の人間性を、回復させたいならば、
これらの古い傷に、
正面から対峙しなければならない。
治療者も、男性神話にとらわれ、
無力感の感情さえ、感知できないならば、
患者に手助けなど、とうていできない。